神殺しの夜に

 おまえは、俺を、殺す男。
 甘やかに告げて、東堂はうっとりとほほえむ。

 東堂尽八がしたたかに酔う姿を、真波山岳は一度だけ見たことがある。
 真波が初めてグランツールの山岳賞を獲った年のことだ。レースとレースの谷間の短いオフに、酒瓶を三本ぶら下げた東堂が国境を二つ越えて訪ねてきた。そら祝うぞと決定事項のように告げられて、なし崩しに二人きりの祝賀会になった。
 ザルだワクだ四次元ポケットだと散々に言われる東堂の肝機能も、この日ばかりはバカンスに出かけていたらしい。鼻の頭を赤く染め、頬杖の上の小さな頭をふらふらと左右に揺らしながら、東堂はひどく上機嫌にとりとめもないことを延々と喋った。レース展開の鋭い分析、最新のトレーニング情報、知人友人の最近の動向から、隣家に巣をかけたツバメの旅立ちまで、話題はあちこちに跳びながら尽きることがなかった。彼が誇る三つの天恵の二つ目であるところの切れるトークが、切れ目のないトークと化している。興味のない話には適当な相槌しか返さない真波を相手に延々と喋り続けられるのも、一種の才能には違いない。
 かっぱかっぱとグラスを空けていく東堂に対抗するのは早々に諦めて、真波はマイペースに東堂の手土産を味わうことにした。東堂が価値を滔々と語った――が真波はもはやそのほとんどを覚えていない――瓶の中身はたしかにたいそう美味だったが、度数がなにしろきつい。酒への耐性は真波も相当なものだが、この東堂に付き合っていては、翌朝は半死半生で床に伸びる羽目になるだろう。
 そうこうしているうちに一本目の中身が底をつき、ム、と東堂が顔をしかめた。
「もう空か」
「東堂さんのペースが早すぎなんですよぉ。美味しいのに、もったいない」
 真波が唇を尖らせると、東堂は嬉しげにうんうんと頷く。
「美味いだろう? こっちじゃなかなか売ってなくて、探し回った」
「貰いものとかじゃないんです?」
「こんな日に、自分の選んだ酒を持たんでどうする」
 ふんと鼻を鳴らしながら、東堂は若干危なっかしい手つきで二本目の封を切った。真波のグラスにトクトクと注ぎ、自分のグラスも満たして、持ち上げる。もう何度目の乾杯だろう。喉をすべりおちる酒精は一本目よりやや辛口で、おそらくこちらのほうが東堂の好みだ。
 くだんのレースは、初めて真波の成績が東堂のそれを上回ったレースでもあった。総合優勝選手のアシストをつとめた東堂と、山岳賞一本に絞っていた真波では立場が違うとはいえ、最終的な決め手になったのは真っ向勝負で東堂を振り切って獲った山岳ステージだ。そんなレースのあとに美味い酒を抱えて後輩を祝いにはるばるやって来るのが、東堂尽八という男だった。
「……ああ、美味い」
 満足げな息を吐いて、東堂がまたゆらゆらと揺れる。目のふちが赤く色づいて、涙を流したあとの顔にも少し似ていた。
 ふと好奇心が頭をもたげたのは、真波も相当に酔っていたからだ。
「ねえ」
「んー?」
「東堂さんが初めて山岳賞獲ったときと、今日と。……どっちのお酒が美味しいですか」
「そりゃあ」
 持ち上げたグラスの、琥珀色の液体ごしに、東堂が目を細める。
「今日に決まってる」
 迷いなく返された答えに、心臓が暴れた。今日の東堂の様子から薄々察していて、だからこその問いではあるが、肯定されてしまうと胸がひどくざわつく。
「……本当に?」
「俺がおまえに嘘をつくものかね」
「だって」
「はは。なぁに拗ねてんだ、おまえ」
 強い指で額をつつかれて、真波は喉の奥で唸った。拗ねている。たしかに拗ねているのかもしれなかった。だって、東堂は真波に負けたのだ。真波が勝った。初めて、勝ってしまった。追って追って追い続けた背中を、追い越してしまった。
 タイヤ半分の差でゴールした瞬間、真波は空にこぶしを突き上げて何度も叫んだ。チームスタッフも驚いていたが、そうせずにはいられなかった。世界には東堂より速いクライマーも、東堂より実績を上げている自転車乗りも山ほどいる。そういう選手に勝ったこともある。それでも東堂は特別だった。小野田も特別だけれど、彼ともまた違う。肩を並べて走ってきた小野田とのレースは、勝つのも負けるのもただただすがすがしく、嬉しかったり悔しかったりするばかりで、いつだって「その次」が楽しみだ。――けれど、東堂は。
 ひとりで走ってきたはずの真波の前にいつも東堂の背中があったことに、気づいたのはいつだったろう。ブレることのない背を、折々に与えられた言葉を、レースのきつい場面で思い出す自分がいまだにいる。
 東堂に勝ちたかった。勝てて嬉しかった。でも本当に勝ってしまって、これからの自分と彼がどうなるのかがわからない、得体の知れない不安が胸に湧いた。
 それなのに東堂は、遠路はるばる酌み交わしに来た酒が自身初めての栄誉の味よりも美味いと言って、あっけからんと笑うのだ。
「真波」
 くつくつと笑った東堂が、どこか舌足らずな、甘ったるい声で真波を呼ぶ。
「まーなーみ。まなみさんがく」
「……はい」
「おまえは、」
 酒精に潤んだ東堂の大きな吊り目が、いつもより低い位置から見上げてくる。虹彩と瞳孔の溶けあうような不思議な色の目が向けられるたび、鏡のようだと思う。彼の内面よりも、こちらの内面ばかりを映して跳ね返す、鏡の瞳だ。
「――おまえは、俺を、殺す男」
 物騒なフレーズを睦言のように甘く囁きながら、東堂の指先が、真波の頬をつうっと撫でていく。
「おまえの翼を見た日から、ずっとそう思っていたよ。夢見ていた、と言ってもいい」
「……東堂さ、」
「だがなあ」
 手品のように表情を一度かき消して、にんまりと東堂は笑う。唇も目もきれいな円弧にして、好物を前にした猫のような顔だった。
「やはり、そう簡単に殺されてなどやれんなぁ。俺は、“山神”東堂尽八だからな。一度手傷を負わせた程度で、仕留めた気になられても困る」
 ぎらりと、東堂の双眸がつよい光を湛える。ぞくぞくと背筋が粟立った。恐怖でも嫌悪でもない。極上の興奮だ。ああ、このひとは!
 真波は東堂に勝った。まだ、たった一度の勝利だけれど、これからもおそらく勝つ機会はあるだろう。それでも、追いつき追い越したはずの背中はまだ真波の前にある。彼があの顔で笑う限り、彼が山神で、真波の先輩である限り。神殺しの剣を振るい続ける真波がその心臓を貫き、彼の息の根を止める日も、いつかは来るのかもしれない。その日を望み、その日に怯えながら、真波は東堂を追い続ける。
 真波は手を伸ばして、東堂のひんやりとした首筋に触れた。トクトクと、少し速いリズムが、彼のいのちの確かさを伝えてくる。生身の人間の、東堂尽八が、確かにここに存在するというあかし。
「――あなたを殺してあげるね。いつか、絶対」
 首筋を無防備に真波にあずけたまま、東堂はゆるゆると目を細める。真波も笑った。このひとを追いかけて、つかまえて、引きずりおろして、その夢を叶えてやろう。いつか、だなんて不確かな言葉しか、いまは言えないけれど。たった一度の勝利で胸に湧いた不安と向き合ってやるのは、そのあとでも十分だ。
 真波は巻島にはなれず、東堂は小野田のようではいてくれない。ライバルにはなれない。それでも、同じ道の上にいる。
 真波はグラスを持ち上げて、東堂のそれに触れさせた。くっと呷ったアルコールは喉を焼き、食道を燃やして、胃に火種を落とす。
 腹に業火を抱えて、そうしてまた、走り出すのだ。

 テーブルに頬を預けて、すやすやと東堂は眠っている。眠りに落ちる寸前の、絵に描いたような面倒な酔っぱらいっぷりなど想像もつかない、至極穏やかな寝顔だった。
 ミネラルウォーターにちびちびと口をつけながら、真波は偉大なる先輩の寝顔をぼんやりと眺めた。床に転がすにしても、ベッドに運んでやるにしても――横になれるソファなどはこの部屋にはない――もう少し酔いを醒まさなければ心許ない。下手に落として怪我などさせるわけにも、さすがにいかない。
 あれだけ摂取したアルコールはどこへ消えたのか、東堂が立てるのは健全な寝息で、介抱がいる様子ではないのは幸いだったが――少し残念でもある。そんなことになっていたら、向こう三年間はからかってやれるだろうに。
 東堂が寝落ちたところすら、真波が見たのはこれが初めてだ。お互いとうに成人で、真波とてそれなりに自立した社会人をやっているのに、東堂が真波の前で大人の顔を崩すことなどこれまでなかった。あるいはこの姿が、彼が作り上げてきた東堂尽八という神様の、小さな死であるのかもしれなかった。
 少しずつ彼のかけらを殺していって、その心臓にたどり着くのはいつだろう。
 遙か高い山を見上げて、真波は笑う。きっとそこには、真っ白な美しい景色が広がっている。